脚本/オギノテツヤの告白

これは自分が病気を克服することを祈り、いつか必ず飯より好きな舞台に復帰したときに自分のための脚本として書いたものです。当時ようやく右目が見え始めパソコンが使えるようになったので、パソコンの練習を兼ねて挑戦してみました。愚作ですが その時の心境は正確に表現出来ていると思います。発症前後から会社に出始めて半年後くらいまでの様子が今更ながら蘇って来ます。

「病気回復時の一人芝居用脚本」平成八年春(発病後約1年半)

<オギノテツヤの告白>

(明転すると椅子に半身麻痺の男が一人座っている。)

皆さんこんばんは。私の名前はオギノテツヤです。私は病気です。病名は脳出血です。これまで1年余りリハビリを続けていますが左半身の麻痺は残っています。実は顔も半分は動いておらず今、私は半顔で話しています。足の方はこれこのとおり動くようになりました。「まだ40歳の若さなのに、何故?」と思われるかも知れませんがこれは事実です。原因は不摂生ではありません。先天的に欠陥があり「脳動静脈奇形」という珍しい病気だったのです。これは、早い人だと20歳以前から発症する怖い病気なのです。そんなこととは露知らず人一倍仕事も遊びもし、今にして思えば随分と生き急ぎをしていたと思います。

出血(発病)したのは、東京への出張中でした。確かにその週は疲れていました。前週の土曜日は趣味でやっている劇団の練習で自宅の神戸から大阪に出向き夜遅くに帰宅しました。日曜日は、早朝から故郷(岐阜県)へ車で帰り、月曜日に戻っています。母が長い入院を終え久しぶりに帰りたいとの希望に沿ったものだったのです。しかし母の兄弟達は一日も早く神戸に連れて帰るべきだと言うばかりで、誰も一日でも預かろうとは言ってくれませんでした。皆が断るのも当然でした。確かにあの時母の体調は最低でした。私としては母の寿命は長くないとの思いがありせめて一週間は故郷に置いておいてやりたいと思っていたのですが・・・。

そして火曜日は朝一番で生まれて初めて「のぞみ」に乗って喜び勇んで出張したのです。不思議に元気でした。この1、2年は風邪ひとつひかず体力にも自信がありました。前日までの疲れは全く感じませんでした。

その仕事は楽しいものではありませんでした。得意先を回ってこれから始まるであろう厳しい取引条件への下準備の仕事でした。実は私はもうこの仕事をしたくないと思っていました。馴染み客の顔が妙に遠い存在に思えてなりませんでした。この仕事を少し長くやりすぎたかなとかるい後悔を感じたのを覚えています。随分と暗い気持ちではありましたが、昼食に名物の釜飯をご馳走になり、少し気持ちが和みました。私は美味しいものにとても弱いのです。一息ついて午後からまた得意先回りを続けました。また次第に気持ちが沈んでゆきました。

その週の週末の金曜日から土曜日にかけてお得意先とともに福井にて研修会を計画していました。そこで私は今後の取引条件の改訂を言わねばなりませんでした。今目の前で話している人達に対してです。私の担当業務の市場はガタガタでした。全員が生き延びるのはもはや不可能と判断していました。ですから力のあるところと私の会社に関係の深いところに絞った生き残り作戦を考えていたのです。「バブルは人の為ならず」であります。

私が発症したのはその夜のことでした。色んな憂さを晴らそうといつになくカラオケを3曲も歌いスナックの止まり木に肘をついていた時のことです。頭の奥で鐘が鳴るように「ガーンガーン」と響いたかと思うやいなや体全体が地面に怖いほどの勢いでひっぱられるのです。隣に同僚(先輩)がいたので「酔っぱらうというのはこういうことですか?」と何度も何度も質問を繰り返していました。その時まだ病気とは夢にも思いませんでした。

その夜は私にとって「日本で一番長い日」となったのです。最初はタクシーを探しました。後輩の前田がおんぶしてくれたのを覚えています。タクシーに乗ってようやく自分が普通の状態でないと理解出来ました。私は同乗の二人に真剣に懇願したつもりでした。「どうか病院へ連れていってほしい。」と。しかし二人とも私が冗談を言っていると本気にしてくれませんでした。確かに私は冗談が好きでいつも冗談めかして生きていました。今にして思えば、二人が信じてくれなかったのも当然だったと思います。昔読んだ「狼少年」の話は本当だったのです。でもすでに私はその時死への予感が膨れ上がってきていたのです。前の座席にいた先輩のネクタイを思い切りひっぱり「お願いだから病院へ連れてってくれ。」と怒鳴ったと思います。その時の先輩の言葉はまるで悪魔の囁きのように冷ややかなものでした。
「お前は、少し疲れているだけだ。」
「違う僕は病気です。」

確かに酔っぱらいにも見えます。やがて先輩は東京駅で降り、後輩の前田がホテルへ送ってくれました。そういえばその前に、一度交番に寄っています。が、彼らは酔っぱらいと判断し取り合ってくれませんでした。 

ホテルの部屋で前田としばらく押し問答をしました。
「医者を呼んでくれ。」
「寝たら治ります。」
「医者が俺には必要なんだ。」
「僕がいますから」
「俺に今必要なのはお前じゃなくて医者なんだ。」
前田は学生時代合気道をしただけあって力が異常に強い。まるでこの日のために鍛えたかのような腕力でグイグイと私をベッドに押さえようとするのです。
「寝たら治る。寝たら治る。」まるで呪文でも唱えるかのように。

家族や友人の顔が一瞬頭をよぎりました。以外にあっけない人生だったなと諦めかけた瞬間、隣室で「うるさい」という怒鳴り声が聞こえました。私は必死に壁を叩きました。又、何度か怒鳴り声が聞こえました。怒鳴られて嬉しいこともあるんですね。気分が悪くなり二度程吐いたと思います。やや異常な嘔吐であった為、前田の態度も少し変わったようでした。間もなくフロントから人が来て、「どうしました?救急車呼びましょか?」
前田が何と答えるか不安だったので自分であらん限りの声で
「はいお願いします!」と叫びました。既に舌はもつれていましたが通じたようです。

あの救急車の悲痛な音と担架が強い安堵を感じるものだとは夢にも思いませんでした。これで何とか助かるかもしれない。皆さんは救急車に乗ったことがあるでしょうか? あの床は本当に堅い。堅い堅い。まるで板のようです。何故か鯉のことを思い出しました。まな板の鯉とはよく言ったものです。救急治療士が即座に診断しました。 「麻痺から見て恐らく脳出血です。」
この言葉には本当に驚きました。

「早速、脳外科を探してみます。」しかし、事は簡単には運びませんでした。「東大病院、受け入れ拒否。「東京女子医大、受け入れ拒否。「聖路加病院、受け入れ拒否。・・」
意識ははっきりしているのでそれらの言葉は信じられませんでした。前田は焦っているようです。「うちの会社は医療機器を扱っています。それに医薬品も作っています。会社名を言えばきっと受け入れてくれるはずです。」彼は必死に食い下がりました。あいつは本当にいい奴です。一段と彼が好きになりました。さっきまでは鬼のように思えた彼が今は仏のように見えました。やがて救急治療士が
「受け入れ先が見つかりました。日本医大です。ここの脳外科はとてもいいです よ。」と告げました。

意識はとぎれとぎれでしたが、前田の安心する気配が伺われました。病院に運び込まれていくつもの検査を受けたと思います。私のそばで看護婦たちが慌ただしく走り回って働いていました。そこで又私は信じられない言葉を耳にしたのです。
「この患者さん頭の中、血だらけらしいわ。」
このとき私は自分の死を覚悟しました。
私の記憶はここでプッツリと途絶えています。

次に気がついたのは4日後のことでした。後で聞くと、この間家族や友人、同僚と話をしていたらしいけれども、私自身は何の記憶もありません。術後1週間は似たようなことが続いていたようです。例の「半分は夢で半分は現実」というやつです。

はっきりした夢を見ました。

自分の歴史の本を読んでいる自分が見えるのです。私の現世は終わり、自分の次のページを見ようとするのですが、誰かが「止めておけ」と言うのです。でもどうしても見たくてそっと覗き見するのです。そこは真っ暗な世界でした。波の音が聞こえました。自分がどうなるかはわかりませんでしたが、どうもその真っ暗な海に入って行けということと理解できました。「それは嫌だ」と強く思ったと思います。

もう一つ夢を見ました。私の故郷でした。畑のそばに小屋があって何故かそこに私は横たわっているのです。看護婦さんが来て、いろいろ世話をしてくれました。「あなたは、何故こんなところにいるんですか。」と尋ねると「今はこういう時代です。看護婦が病院にいたのはもう昔のことです。」
気が付くと集中治療室でした。この夢は半分は現実だと思いますが確かこの看護婦さんの名は篠原さんでした。この名字は確かに私の故郷に多い姓なのです。

しばらくして気が付くと私は車椅子に乗っていました。いやその前にオムツのお世話になっています。本当に赤ちゃんからのやり直しです。最初は楽でいいやと喜んでいましたが、頭がはっきりするにつれ、気持ち悪くて嫌になりました。しかもその始末を若い看護婦さんにしてもらうのは嬉しいような屈辱的なような妙な気持ちでした。トイレにはいちいち看護婦さんに連れていってもらうわけですがこちらが用を足す間彼女たちは薄いカーテンの向こうで待っているのです。とても気になってついつい「あなた、どこの出身?」とか聞いてしまうのです。そんな自分がとても悲しかったのを覚えています。

車椅子に乗るということは世界が変わるのと同じくらいのショックです。すべての景色が灰色がかり虚ろな感じがします。テレビは最悪で自分とは本当に縁遠い世界のおもちゃのようです。特に嫌なのが朝のラジオ体操です。あんな無礼な番組は他にありません。コマーシャルもいちいち腹立たしい。障害者専用番組の放映が望まれます。詰まらないリポビタンの宣伝は即中止にすべきです。結果的にはリハビリも順調で運良く歩けるようになりましたが、病院には車椅子のままの方やそれどころかオムツのままの人も少なくないのです。リハビリは必死でした。歩ける保証はどこにもありません。 

医者というのは病人を病人にする癖のある人です。必ず悲観的なことを言います。

回復に従い夜が怖くなっていきました。眠れないのです。兎も角脳外科病室の夜は凄まじいものです。救急患者が多いせいもあるかとは思いますが、点滴を手にベッドの上で踊る人、わめき散らす人、ベッドから転げ落ちる人、ひょっとして自分もああだったのかと看護婦さんに尋ねるとどうも結構騒々しい方であったらしいと聞き、何と凄まじい世界に迷い込んだものだと不安と焦りが日に日に膨らんで行きました。そんな時主治医に呼ばれ言われたのが、
「この後甲府に行ってリハビリしたらどうか。」
というぼくにとっては死刑宣告のような勧めでした。もちろんそこは日本医大と関係ある良いところでした。主治医が本当に私のために勧めてくれたのはよくわかりました。当然これには、家内も上司も同僚も全員賛成でした。全員善意で言ってくれているのはよく分かりましたから、却って辛かったのですが、私は絶対に嫌でした。この世界から一刻も早く抜け出したかったのです。私は早く関西に戻りたかった。家族のもとに帰りたかった。これを拒否するのは大変でした。悩んで悩んで余計に眠れぬ夜が続きました。こういう時人は死にたくなるんだなと思いました。丁度そのころ、テレビでは愛知県で起こった大河内清輝君の自殺事件を報道していました。彼はきっとひどい孤独に追いやられたのであろうことが、よく理解できました。彼は恐らく、父母を愛し友に優しい少年だったのに残念なことをしました。人は悪意だけで死ぬのでなく善意によっても簡単に死ぬことがあるのだ。


眠る時、瞼を閉じると高い空が見えてくる、もう一度瞼を閉じると広大な大地が広がってくる、次に瞼を閉じると深い透明な海が見えてくる。心の中には広い世界が存在し、その世界はこの現実よりかなり「高く広く深い」のではないかとよく感じるようになりました。今までそんなこと考えたことすらありませんでしたが、どうもそんなことのようです。これは私の思いこみかも知れませんが、この現実の世界で起こっていることは実は心の中でも同時に進行していてたまたま偶然に一致しているのではないかしら。そこに何かズレが起きたとき人は悩んだり苦しんだりするように思うのです。ひょっとすると死後の世界はそのように高く広く深いのかも知れません。

「人生は旅である」私は昔から芭蕉の「奥の細道」の前段が好きで今回の病気もややハードな海外旅行のような気がしてなりません。今後いくつの旅が出来るかはわかりませんがそろそろ行き先も絞り込む時期が来たのかと思います。私の今の夢は二つです。一つは家族とともに生きることであり、二つ目は芝居をすることです。どうも生き慣れてしまうと何が一番大切か見失ってしまうようです。もちろん会社は無ではありません。一緒に働く仲間達と共に頑張るのは楽しく嬉しいことです。でも会社そのものはそんなに大切なものとは思えません。


先日中島みゆきの「時代」という歌を聞いて号泣してしまいました。表面的には今の病気の境遇に平然としているつもりでしたが実は広い広い心の中はひどく苦しんでいるのだと気付きました。今はもう発症して1年半が過ぎようとしていますが、勤務の方は週3日まで何とか辿り着きました。これは随分と早い復帰らしいのですが、お陰で平日子供達と接することが出来、これがなかなか楽しくて毎日が御午前様に近かった以前の生活の無意味さを悔やむばかりです。一緒に居なくては共に生きるとは言わないのです。このことに気が付けたことは幸運と言えるのではないでしょうか。今、私は家族と共に生きようと強く思っています。

芝居というのは本当におもしろいものです。昨年仲間の公演を見に行き改めてそう感じました。いつも演じる側ばかりのなかにいた自分には本当に芝居のおもしろさがわかっていたのだろうか?公演が終わったときものすごい感動が体の奥から沸き上がりしばらく夜寝付けませんでした。「ああおれはこの劇団に入りたい。」心の世界はしばらく嵐が吹き続けていました。そしてもう一度舞台に立つときは日本一のサラリーマン役者になることを夢見て今は静かに生きています。

私の話はこんなところです。どうか皆さんも体にはくれぐれも注意なさって下さい。皆さんの旅が素晴らしきものでありますように祈っております。お休みなさい。

               完


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