ケント哲学:Lecture on Homeopathic Philosophy

ケントとは、ホメオパシーの中興の祖と呼ばれる米国人の医師ホメオパスである。約100年前に活躍した方である。正式名は”James Tyler KENT”であり、彼の講義をまとめたものが、”LECTURES ON HOMOEOPATHIC PHILOSOPHY”いわゆる「ケント哲学」と言わています。

ここで彼はハーネマンが確立したホメオパシーの原論「オルガノン」を彼自身の考えで再構築しています。世界のホメオパシーを学ぶ者にとって最も基本的な教科書の一つです。100年前に書かれたものですが彼が指摘した医療の問題点は今もほとんど変わっていないと僕は思っています。

ホメオパシーの原理を述べる難しさは、「目に見えない生命エネルギー」について説かねばならないことにあります。それで当然色んな形で比喩が用いられています。彼が使う比喩は僕たち東洋人には理解しにくいこともあるのですが、非常に体系的に原論は書かれています。

尚、これは僕が原書からまとめたものではなく、学校での翻訳教材を元に、僕なりに理解しまとめ直そうと試みるものです。当然ながらそういう限界もここにはあります。それを前提に読んで頂ければと願っています。

僕自身理解しにくい点は原文を参照したところはありますが、正確なものをお知りになりたい場合は全文が以下URLにあります。
(参考:HOMEOPATHE INTERNATIONAL より)
LECTURES ON HOMOEOPATHIC PHILOSOPHY


0604 より、この項目を関西ホメオパシー勉強会で取り上げて、順次まとめながら考察し始めました。それにあわせて最後までまとめなおしてみたいと思います。ここでのまとめはあくまで勉強会メンバーのまとめを参考に僕がまとめなおしたものです。


050501お知らせ!『ケント哲学の日本語版』出版されました!
書名『ホメオパシー医学哲学講義』(ジェームズ・タイラー・ケント著/松本丈二・永松昌泰訳)緑風出版 定価 3200円+税


Let's Study Homeopathy!

<目次>
NO.1 第1章:病気の人:通常医学との比較:040503
NO.2 第2章:治癒とは真の”健康”の回復:040505
NO.3 第3章:知覚する/PERCEIVE:040512
NO.4 第4章:動かしがたい基本原理:040512
NO.5 第5章:継続的な外部要因と外科手術に関する区別:040523
NO.6 第6章:「偏見なき観察者」:040523
NO.7 第7章:軽疾患及び治療における「アート」:040831
NO.8 第8章:基本的本質について Simple Substance(難解だが、かなり重要!):060621
NO.9 第9章:生命力に最初に乱れが生じる:060621
NO.10 第10章:医学における物質主義 Materialism in medicine:060709
NO.11 第11章:健康な状態および病気と治癒の過程:060709
NO.12 第12章:症状群の全体像の除去は原因の除去を意味する:070307



<NO.1 第1章:病気の人:通常医学との比較>

1.ホメオパシーを通常医学との比較から理解する。

●ホメオパシーには基本原則(類似の法則)があるが、通常医学にはない。
通常医学にあるのは医師各の経験のみであり、そこにあるのは雑多な意見や仮説の集まりである。

●ホメオパシーは病気の「原因」に対して行われるものだが、通常医学は「結果」に対して行っているに過ぎない。つまり通常医学が問題にするのは「病気の結果としての臓器の変化」であって、原因について考えることはない。これは科学的態度とは言えない。

ホメオパシーは「原因−結果」までを連続して辿っていこうとするものであり、故に病気の源にまで遡ってゆくことが出きる。


2.「病気の人」又は「人」に対する考え方について

これはハーネマンのオルガノンの第1章をどう受けとめるかで、本当の医師かどうか が分かる。

<オルガノンより・・・>
『医師の高潔にして唯一の使命というものは、病気の人を健康に戻すこと、正に文字通り治癒することにある。』

人の本質は「意志と理解」である。これがあらゆる人の生きる源と言える。
つまり人はこの「意志と理解」が身体という「家」に住んでいるのだ。これは冷静に考えたら誰でも分かることである。

医師が見るべきはこの「意志と理解」の部分であり、決して「住んでいる家」ではない。ところが通常医学では「病気の人」、即ち「その人」が住んでいる「倒れ掛けた家=結果」を何とかしようとしてばかりである。

この人の根元とも言える「意志と理解」は人が死ぬ時に持ってゆかれるものであり、残ったのは「倒れてしまった家」ということになる。そんなところで一体何を探しているのか? 何も出て来やしない。


3.人を理解するための方法はプルービングである。

通常医学は死んだ人を詳しく解剖しているがそこにあるのは「空き家」に過ぎない。そこでは、もう人は出ていっていないのである。

人を知るためには「生きている人」について考える必要がある。それがプルービングであり、この情報をまとめたものこそが真の病理学である。それを「マテリア・メディカ」とホメオパシーでは言っているのである。



<NO.2 第2章:治癒とは真の”健康”の回復>

オルガノン第2段落には3つのポイントがある。

--------------------------------------------------------
1.治癒とは健康の回復であり、単なる症状の除去ではない。
2.健康の回復は「迅速に、穏やかに、永久的に」なされなければならない。
3.容易で知的な基本原則に則る
--------------------------------------------------------

以下個別に説明する。

1.治癒とは健康の回復であり、単なる症状の除去ではない。

「除去」と言う考え方には「”人間全体”の健康の再建」という視点がない。通常医学の医師は例えば、表面に見える皮膚病を無くせば治癒だと考えてしまう危険な行為である。
それは病気の原因をより深く押し込めて、より大きな病気になることを助けることにすらなるのである。


2.健康の回復は「迅速に、穏やかに、永久的に」なされなければならない。

症状を除去する方法として激しい薬剤が使われた場合、それが迅速ではあっても、投与後の反応が穏やかなはずはない。まして永久的であるはずもない。
特に石油化学系の薬剤は、暴力的な性質を持ち、精神をも破壊する。それで最も悪性の新しい病気に陥ってしまうことにもなる。そこには深刻な事態が待っている。


3.容易で知的な基本原則に則る

治癒は推測や仮説や単なる経験主義などでされて良いものではない。新薬製造業者(たびたび、よりよく効果が出る薬を出し続ける輩)の能書き通りに処方するなど問題外である。


◎まとめとして(ヘリングの法則の根拠)

病気において混乱が起こるのは人間の内部環境であって、外部の組織(器官・臓器)ではない。治癒とは内部環境に最初に秩序が戻り、最後に外部にも秩序が戻るのである。人間の最初とは意思である。次が理解であり、そして、最後が最外部である。

つまり治癒は
●中心から周辺へ
●上から下へ
●より重要な器官からより重要ではない器官へ
●症状が現れたのと反対の方向で消失してゆく。そしてそれは永久に消える。

「病気」とはこれと反対の順番に起きて来たのである。


<NO.3 第3章:知覚する/PERCEIVE>

ハーネマンの言葉を要約するとこうなる。

<オルガノン第3章>

『・医者は病気について治癒すべきものを知覚すること。
 ・同時に薬(レメディ)の治療作用についても知覚すること。
 ・そして実際の患者を治癒させるためにレメディの必要量・反復回数・期間について知覚すること。』

ここでのポイントは「知覚する/PERCEIVE」ということ。

・ハーネマンは「見る」と言わず。「知覚する」と言った。知覚するとはただ見ることではなく、「精神と理解の力によって深く洞察すること」である。

・この言葉の使い方から彼が病理学・病理解剖学的知見から治癒のことを考えていなかったことが理解できる。では何を治癒への示唆を与えてくれるものと考えたのか?

・・・それは「患者の全体像」であり、「症状の全体像」である。

・何故ならこれこそが患者の「内部環境の乱れ」を表現しているものであり、そこに働きかけない限り、治癒を起こすことは出来ないからである。

・すでに組織の変化として現れている症状は「結果」であって、治癒の示唆を与えてくれるものではない。医者が見るべきものは目に見える「組織的変化=結果」ではなくて、「内部環境の乱れ=中核部」である。

即ち、医者が知覚するべきものとは、その症状を起こしている「中核部の状態」を見極めることに他ならない。


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<NO.4 第4章:動かしがたい基本原理>

(この章はまとめ的に記述されているので、箇条書きとする)

1)医師は経験ではなくて「基本法則」を大切に考えること。

2)病気は「内(中核部)から外に」流れる秩序に沿って現れる。

3)従ってこの流れに沿ったもの(薬)でないと治癒効果はない。

4)この世にあるのは器官に潜在するミアズム(原因)と病気の結果だけである。ミアズムは知覚出来ないので一般医学では無視されてきた。一般医学が注目しているのは「結果」である。それを対象にしても治癒の方法は見つからない。

5)治癒のヒントは「兆候と症状」の中にしかない。これを掴むことだ。何故ならそこに中核部の乱れが表現されているから。

6)医師は病気に対する明確なイメージを持つことが必要。マテリアメディカを勉強するのはそれからだ。

7)病気の本質は目には見えない「中核部の乱れ」にありそれは「兆候と症状」からしかわからない。

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<NO.5 第5章:継続的な外部要因と外科手術に関する区別>

●「区別すること」の重要性

1)これは「何が真に癒されるべきか?」と同義である。
2)「区別」の具体的な例
・癒すべきは「その人自身」なのか?「その人が住んでいる家」なのか? 
・「内科医」が必要なのか?「外科医」が必要なのか?
・一見外部に見えてもその外部に現れているものでも、「内部-->外部」に向かった「結果」としてのものならば、内科医を必要とする。

3)不健康な食生活を送っている人にいくらレメディを処方しても治癒は出来ない。

・外部要因をまず取り除くことが大切
 不健康な生活習慣・空気の悪い住環境・不適切な食品の摂取など
・これらを変えても尚、健康を取り戻せないなら「内部要因」の治療が必要になる。

これらの「外的」又は「内的」要因について「区別」することが診断の入り口でのポイントである。

この「区別」の問題について具体的に急性疾患を例に説明する。

急性疾患とは2つの種類がある。<----これも「区別」が必要!
(1)真の病気=ミアズム的疾患(このベースには慢性ミアズムの存在がある)
(2)擬態病=これまでに述べたような外的要因のもの(すなわち不健康な生活習慣・空気の悪い住環境・不適切な食品の摂取など)

●真の病気について
・経過が見られる=「前駆期」「進行期」そして「衰退期」又は「死」
・病気としては=麻疹、しょう紅熱、百日咳、天然痘など
・これらの根元的要因は「慢性ミアズム」である。「慢性ミアズム」がなければ急性ミアズム(=急性疾患)もない。

●慢性ミアズム
・最も根元的なマヤズム=ソラ/PSORA
・これこそすべての感染症の原因である。
・これがなければSYCOSIS、SYPHILISの2つのマヤズムもない。

●ソラ/PSORA
・極端な内的秩序の乱れ。即ち、「中核部」が邪悪な状態になってしまう。
・内部が狂気であれば、当然外部は混乱状態にある。

●「目に見えるもの」に惑わされてはならない。これも「区別」が必要。

・「目に見えるもの」はすべて何かの原因の現れ=「結果」である。
・病気における根本原因は顕微鏡でも見ることが出来ないもの。即ち「慢性マヤズム」である。
・これは見えない以上、「知覚する」ことでしかとらえられない。

●病気の始まり(根元)がどこにあるかを知覚せよ。
・それは「兆候と症状」という形で表出された「精神的な乱れ」として発見出きる。
・但し、内的な乱れだけでなく「結果」としての「外部」も見落としてはならない。
何故なら、特に慢性病では「外部」を見ることで「内部」の検証が出きるからである。

●病名に惑わされるな(原因と結果の区分をせよ!)

・現在は組織・器官の病気にはその器官の名前がつけられている。
・しかし、それはあくまでも「内部の乱れ」の「結果」に過ぎない。
・その間違いの最たるものが「細菌原因説」だが、それは間違いである。
・何故なら細菌を破壊しても病気を破壊することが出来ない。それに細菌への感受性のない人は病気になることはないからである。


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<NO.6 第6章:「偏見なき観察者」>

●医者は「偏見無き観察者」でなければならない。

1)経験によって確認できないような推測をしすぎてはならない。
2)個々の病気について注意を払うことはない。
3)注意をすべきは現在病気の人が以前健康であった状態と比較してどう異なっているかである。
4)そしてその差異は本人の自覚・周囲の発言・医者の観察が元になる。

これら全ての”知覚可能な兆候”こそが病気の体現である。

●「症状として現れているもの」だけがすべてである。

1)症状は患者の内部の混乱を表現している。
2)病気とは「状態の変化」にすぎない。
3)医者に出来ることはその混乱を矯正することだけである。

●偏見を持ってしまう理由がある。これを避けること。

1)絶対的な基準を持つこと。
例えば今の医学は学派によって基準が違う。これは偏見の元であり混乱の元である。

2)「臓器の変化」にばかり目を奪われることが偏見を生む。
そもそも臓器に現れた変化は病気の「結果」であり「原因」ではない。

3)例え、基準・法則があっても偏見は生まれる。
何故なら五感で知覚する限りは人によって感じ方に差が出てくるからである。

●「医者はそれぞれ個々の病気について状態の変化のみを知覚する」

1)「状態の変化」とは例えば・・・
・物忘れがひどくなった
・精神活動が低下した或いは混乱に陥る
・文章表現に漏れがでる
・アイデアが消える
・イライラするようになった
・以前明るかったが最近悲しいことが多い
・・・など。これは「状態の変化」であって病的な組織とは関係が無いことである。

2)こうした「状態の変化」を患者自身がすべて語った後、そして彼のことを善意で捉える周りの人の情報こそが重要。これらを経てはじめて病理的な乱れについて考察できる。

3)自分が見ること・臭い・臓器の音・胸の音・発熱の激しさなど自分の手や体温計などを使って注意深く調べることが必要。そして、病気を体現しているものすべてについて全体のイメージを通して検査したら、真に価値ある情報となるのである。

●組織に変化が存在したらどうするのでしょう?

1)レメディを示唆する情報として「病んだ組織の性質」はまったく関係がない。それは病気の「結果」であるに過ぎないから。
2)仮にそれが腫瘍であったとしてもそこには形態変化の性質に到達する情報はない。患者内部の混乱状態はその性質を「兆候と症状」のみによって医者に示す。これに対して処方するしかない。

●病理学的変化・病的解剖学的所見がまったく無い場合

1)「兆候と症状」を知的に統合的に捉えれば状態の性質は明示される=それが「全体像」 そしてレメディについても情報は得られる。
2)もしレメディを与えずに放っておくと・・・
・2〜3年後には「結果」として組織病変が現れるだろう。その結果が出てからもその患者には元のレメディが必要である。

3)「組織変化」がレメディを示唆することはない。
・医者はそれがでる前の症状を調べることを学ぶこと。

●臓器にばかり注目する医者達

1)臓器を治癒させてそれが治癒だと思うのは浅はかである。結果を修復しても原因に対応しなければ本当の治癒は出来ない。

2)検死解剖によって得られるものは病気の「結果」について学習するための手段としてのみ有効である。死体をいくら厳密に調べても健康についての情報は見付からない。

3)解剖や検査からは患者に対する治癒についての情報は得られない。

●身体的な診断

1)病気がどこまで進行しているか?患者が治癒不可能かどうかを決定することは出来るかもしれない。あるいは「治癒のための治療」か「緩和のための治療」かを決定することができるかも知れない。

2)しかし、病理学の研究はマテリア・メディカの研究とはまったく違うものである。

●外科的な処置について

ある種の病気の結果が残る場合は必要なら切除しても良い。しかしそれはあくまで完全に自己治癒が終わった(それ以上は治らない)と見極めた段階でするべきである。

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<NO.7 第7章:軽疾患及び治療における「アート」>

●軽疾患とは=真の病気ではないが一見病気のように見えるもの

これはそれの誘起原因や維持原因を取り除けば自然消滅する擬態病である。外部の要因からの症状は一見ミアズムに類似して見えるかも知れないが、混同してはならない。ただ「外的要因」を取り除けば良いだけである。
例えば、不摂生、ビジネスの失敗、落ち込んだ状態、若い女性の片思い・・これらは軽疾患の誘起原因であり、それを取り除くことで、消滅するものは軽疾患と言える。

●ホメオパシーは「科学」と「アート(芸術)」の2つに分けられる。

科学とは基本原理と秩序の知識。これは努力すれば誰もがそれなりに出きる。しかし、マテリアメディカの全てを暗記したからといって、治癒が出きるわけではない。「アート」とは「治癒のための応用」である。これはなかなか難しい。
すべての治療が応用である以上、「アート」が出来なければならない。

●「アート」即ち応用力を身につけるためには・・簡単ではないが、

まず、
1)人間の秩序の乱れとして病気を研究する
2)人間に秩序の乱れを起こす薬(レメディ)の症状という視点から病気を研究する
3)すなわち、これらは「マテリアメディカ」を研究することである。こうした研究こそが真の知識になる。
4)患者とマテリアメディカを比較検討する。

こうした、治癒に関する方法と知識はまだ「科学」の範囲ではあるが、慣れ親しむことが、やがて「アート」に繋がる。

次に
5)アートのためには愛が必要
・まず、自分の仕事(ホメオパシー)を率直に愛すること
・治癒すること自体を愛すること
こうした愛こそが数々の失敗を乗りこえさせてくれる。そこにアートに至る道が開けて来る基盤になる。

そして
6)「イメージ」すること。
7)こうしたことを継続して応用すること

やがて
8)「症状像」「全体像」が見えてくるようになる。

ここに至って、初めて内部の乱れを秩序に変えることが出来ようになる。

(第7章終わり)

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<NO.8 講義8 基本的な本質 Simple Substanceについて(ここはとても難解だが、かなり重要!)>

●ハーネマンの第9段落の言葉はとても重要で多くのことを言っている。

『霊的な生命力は、物質的な身体に生命を吹き込む流動体である。その霊的な生命力が、無限の統制力によって人の健康を統治している。さらに、生命力は、感覚と機能のどちらにおいても、生物体のすべての部分を、驚くべき調和の とれた状態で維持している。そして、我々の中に生きる論 理に導かれた精神が、この生きている健康な身体を、我々人間の存在にとってより高尚な目的のために、自由に使用 できるようになるのである。』

*これは、オルガノンで最も感動的な章であり、暗記するべきだと荻野は思う。

ケント博士は上記の言葉からここで以下のことを解説している。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1.
この世のあらゆるものを含め、人間の存在は「基本的な本質 Simple Substance」からの連続的流入故にあること。そして、この「人間という実在」はより高い目標を実現するためにこそ、その存在の意味を持っている。人がこの世に存在するのはこのためである。

2.
「生命」はその源流としての「基本的な本質」から個々の「細胞」に至るまでの多くの階層全体に流れ、故に生きている。
その一番高いところにあるものを魂と呼ぶ。レメディはそれぞれの階層に合わせて活性化したものでないと効果は出ない。

3.
この世は原因の世界と結果の世界から出来ている。
ホメオパシーが見ないといけないのは「原因の世界」である。そのためには上記1.の生命力の源流にあるものを理解することと2.の問題の起きている階層に応じた活性化(ポテンシー)したものを見極めることが必要である。


*あえて荻野の理解を言うなら、

「Simple Substance」とはエネルギーの大本の姿(大自然の持つ根本的なエネルギー)であると考える。個々人に流れ込んだこのエネルギーは、その人固有の振動を持ち、個々の自然界の物質(レメディ)の振動(種類)と共鳴するものがあると思われる。その振動の類似性を見て行くのが、レメディ選びのポイントである。
一方、「Simple Substance」を源流にして身体の細胞の隅々にまで、これが連続的に流れる故に生きているわけだが、それは流れてゆくまでに多くの階層を経てゆく。その階層こそがポテンシーを選ぶべきポイントである。
いずれも「量」ではなく「質」の世界のことを言っているのであろう。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

●調和状態と基本法則

ハーネマンは、調和状態そのものを「力」であると考えているように読みとれるが、調和状態は基本原理の結果と解するべきである。

ハーネマンは「非物質的な基本原理」が物質的身体へ魂を吹き込んでいると表現しているが、これは「Simple Substance」と表現すると更に理解しやすくなる。

●生命力

科学では物質を固体・液体・気体・放射線という状態で捉えている。「Simple Substance」はこうした「具体的な形」を持った物質と同じくらい肯定されるべきものである。

ここでは、「生命力」について改めて考えてみる必要がある。

「力」とはこれまで、単なる構築力(モノをまとめ上げる力)と考えられてきた。そして、”それ”以前には何もないとも考えられてきた。それが全ての間違いの元である。

しかし、キチンと考えてみると、エネルギーは「実在」のものと考えざるを得ない。

それを考えてゆくと・・

★原因--->結果(原因)--->結果(原因)--->結果(原因)--->・・・

という連続する姿が見えてくる。実在するためには決して途切れることのない「連続性」があることが理解できる。これはまるで「環」のようである。

●人間という連続的存在

人間の存在も、考えてゆけば、同じ結論に至る。人間が存在するのもまるで一つの環のように連続するひとつのまとまったものである故に、その存在を続けることが出きると考えられる。それが途切れた時、死が訪れるのである。

それは「連続的流入性」によって実在出きると理解できるはずである。

では、その出発点はどこか?考えてみる。

それは「大自然のエネルギー」である。それはエネルギーの大本であり、その本性を表現するなら「Simple Substance」であるとしか他に言いようがない。

この「Simple Substance」(エネルギーの元)を源流とした「連続的流入」がある限り、人間は実存する(生きている)と言える。

人の実存を考えるとき、やはり神(のような存在)は実存するとしか考えられないのである。

つまりすべては神(のような存在)から始まるのである。そして連続的流入が最終産物を実存させると言える。

「至高の神------------->最終産物(人間も含めたありとあらゆるもの)」

●物質的世界

物質的世界には秩序と調和がある。それは目の前にあるすべてのものはすべて始まりがあると考えて良い。この世の全て(動物・植物・鉱物)は調和がとれていて、それぞれの形態を保っている。

これはモノだけではなく、人間も同じである。「連続的流入」がある結果なのである。

その一方で、人間の手で作られた「モノ」はすべて老朽化して崩れてゆく。

それぞれが、その独自の形態を維持するのは何故だろうか?
そして、それぞれの系において、知的に操縦しているのは何故だろうか?

・・・それは「Simple Substance」故である。これこそが各々にふさわしい生命を与え、区別を考え、他のすべてと異なる個性を与える。

●自由度の問題

もし、人間が最高の秩序にあり、理知的なら、自分の心身の秩序を維持できるはず。

ところが人間には”自由度がありすぎる”故に、自分の秩序(理知)までも破壊してしまうことがある。そこに不調(病気)が現れる。

つまり「Simple Substance」はただ流入するのではなく、秩序が乱れても流れることがあるということである。

人間の身体・意思・理解・動作・協調ほど素晴らしいことはない。この協調は「Simple Substance」によってなされている。これがなければ、すべての物質は死んでいることになり、そして、これなくして、現状より、より高い目標のために存在そのものが使われることはない。

●魂

身体の中では生命力が他のすべての力の秩序を維持する。動的な基本的な本質はそれらの目的に応じて、お互いに統治しあう。ある「力」は別のものより、より高い目的を持っている。その最も高いところにあるものを「魂」と呼ぶ。

これは時間・空間・場所といった概念から離れた非物質的なものであり、当然、「量の世界」のことではなく「質の世界」のことがらである。

さて、これをホメオパシーのことに当てはめてみると次のことが言える。

”ポテンシーの違いで効果が異なるのは「量の問題」ではなく「質の問題」に関わること”だということ。

生命力即ち「Simple Substance」は周りの環境への適応能力を持っている。ここからいわゆる環境理論?に結びつける考え方があるがそれは間違いである。

人間の環境への適応能力は議論の余地がないが、その個人自身が環境に適応させるものは何でしょう?

それは死んだ人間を見れば分かるでしょう。

これまで見てきたように「Simple Substance」こそが環境への適応を促している。これは「生命」だけに留まらず、それが「住む家」をも周囲に適応させている。

●魂とSimple Substanceと階層

これは同じ次元にあるものと言って良い。そしてこれらは身体のどの部分にも存在するとも言える。これがある限り、身体は常に建設され、再建される。

さて、細胞を見て行くと、そこには最も単純な生命の形があることに気づく。そこにはこれまで、述べたような源流としての「Simple Substance」もあり、「連続した流入性」による秩序があることも確認出きる。

その細胞を更に分析してゆくなら、元素としての、C、O、H、N、Sがある比率で存在していることが分かるはず。

では、逆にその比率で、これらの元素を一緒に入れて何が出きるでしょうか?

単純な何かの混ぜものが出来るに過ぎません。それは決して細胞にはならないのです。細胞になるには「生命力」が必要です。つまり「Simple Substance」が働かないと存在出来ないことが分かるでしょう。

更にミクロを見て行くと、この不活性レベルの元素も「Simple Substance」の階層を持っていることにも気づくはずです。

●人間の階層

人間の身体もSimple Substanceの階層を持っている。最内部は意思と理解であり最外部は最も粗野な組織(皮膚)です。

そして、それぞれの階層毎に「Simple Substance」が統治・支配するという構造がそこには見られます。

●レメディは階層毎に影響を与える

例えば、「Sil.30C」は表面的な層を活性化する。しかし、ある一定の時間が過ぎると作用しなくなる。より内部の層に質的に類似するように活性化されたレメディでないと作用できず、これは最も内部の微細なレベルの層に至るまで、続けられることだろう。 つまり「Simple Substance」の最も内部・最も繊細な階層に至るまで。

*ここではケント博士は「レメディ」は階層に合ったものでないと効果がないということを言っていると思う。

●オーラを感じる

人には根本に「Simple Substance」があるが、それぞれの違いについては感性で感じることができるものである。それはある動物が非常に匂いによってかぎ分ける能力が高いのと似ていて、人間にはそれを人間が発する大気(オーラ)から見分ける能力が備わっている。

「その人」をみるということは「その人のSimple Substance」をみることと同じであるがそれを見分けることは人間に与えられた一つの力だと言える。

●宇宙の2つの世界

原因の世界と結果の世界。

結果の世界は物質的世界であり、五感によって確かめる事が出来るが、原因の世界を見るにはそれでは無理である。そこには思考と理解が必要であり、これまでに述べた「Simple Substance」という人間の最内部は原因の世界を見れなくては掴むことは出来ない。

★注:ここでの翻訳の難解さは「Simple Substance」をどう訳すかに ポイントがある。日本語訳の本では「基本的な本質」と訳されているが、それではこの言葉のニュアンスが伝わらないので、ここではあえて、原語=「Simple Substance」をそのまま使った。この宇宙・大自然における本源的なエネルギーの源流といったようなものと、僕は理解している

(第8章終わり)

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<NO.9 第9章:生命力に最初に乱れが生じる:060621>

(オルガノン 第10段落)
生命力とは?
物質的な生体をささえるもの・・・
感覚 (sensation)
機能(function)
自己保存(self-preservation)
・・・の力を持つ。

(オルガノン 第11段落)
病気とは?
生命力(vital force)が乱されること。「病的な症状」によってのみ知ることが出来る。

<病気のプロセス>
1)第一段階 
「乱れ」が起きる。
・人間活動における
内的な秩序の「乱れ」
調和の「乱れ」
均衡の「乱れ」
・非物質的な生命の基本原理の「乱れ」
・「病気の形態や病気の本質をもっている基本的な本質(simple substance)の流入。

☆「乱れ」を起こすことができるものとは?
・人間の自然状態において、基本的な本質(simple substance)という形態に影響を与えることできるもの。
・ 極端に微細な形態をもつ基本的な本質(simple substance)

2)第二段階
「内性感覚」に変化がおきる。

☆「内性感覚」とは?
・秩序の乱れを読み取る言語。
・秩序の乱れや病気を認識する媒体。
・原因からくる見えない障害。その障害の存在は、身体活動の変化、感覚の変化、機能の変化によって認知される。
・私たちへの警告。
・内部に乱れがあることを医者に知らせてくれる。
例)指が感じられなくなった。皮膚がつねられている。胃の痛み。
焼けるような痛み。ずきずきとした痛み。疼痛。
青白い。青ざめている。丘疹や膿疱。
赤い顔。赤い目。脹れや拡張蛇行静脈。

3)第三段階
「結果」として表現される。
・組織の変性。 有機体の変化。細胞に表現される変化。

<医者の使命>
「乱れ」を秩序に変え、患者に自由を確立すること。

<医者に求められること>
1)症状と結果の判別がきちんとできること。
・病気の結果を表現するものではなく、病気を表現する症状をとらえる。
・本質的な病気を表出している症状と病気の結果を表現している症状を区別できる。
・病理学的な結果でなく、症状が必要。
2)「内性感覚」をきちんと把握できること。
3)症状に精通していること。
・「症候学」
・真の病理学がわかる。
・気のイメージが自動的に頭の中に形成されるようになること。

<まとめ>
講義9では、前半病気のプロセスについて述べられ、それをもとに後半医者が何をしなければならないかが書かれている。
私たちの体は、目には見えないバイタル・フォースによってまとめられている。そのバイタル・フォースを乱すものは、目には見えないエネルギー的なものでしかありえない。
乱れた状態に秩序を取り戻すには、その乱れた症状と似た症状を起こせるレメデイが必要。その正しいレメデイにたどりつくためには、病変してしまった組織のような”結果”ではなく、”患者が内的に感じる兆候・症状”の情報こそが必要である。

(第9章終わり)

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<NO.10 第10章:医学における物質主義 Materialism in medicine:060709>

[T] Organon §13
物質主義的な考え方では病の真の原因を知覚することができない。

物質主義的な考え方とは?
時間と空間の法則に従わないものはすべて信じることを否定します。すべてのものは長さや重さが計測可能でなければならず、ある空間を占有しなければなりません。その結果、そのような条件を満たさないものは何ものでもなく、存在しないのだと明確に断言します。

病の真の原因は「基本的な本質」にあります。
基本的な本質の特徴・・力、動き、活動 ⇒ 生命の世界、思想の世界、原因の世界(不可視)

物質の特徴   ・・休止、静寂、静止 ⇒ 死んだ物質の世界、物質の世界、結果の世界(可視)

※ 動きのない物質の世界に原因を探し当てることはできません。


[U]  Organon §14 治癒可能な病・・病気自身の存在を知らせるために兆候や症状を示す。

治癒不可能な病・・兆候と症状を示さない。珍しくない病理学的な表現のみ。
このことは神の秩序に一致する。

※ 物質主義的な考え方では兆候や症状から不可視な中核部の乱れを理解することができません。
ホメオパシーの教義を学ぶことにより兆候に精通し、十分理解できるほど知的になることが可能になります。
また、この段落からハーネマンが神を認知していたことがわかります。
「神が薬剤によって人間を破壊しようとするはずがない」という“思い”が出発点ですが、実践と研究により、神を認知し、最終的にオルガノンに示される法則を知覚するに至りました。
  物質主義的な考え方では不可視の神の存在を認知することはできません。


[V]  Organon §15
不可視の生命エネルギーと物質的身体とを分けて考えるけれども、本当は分けられない一つのものである。

※ 中心部の活動(非物質)と、その結果としての身体(物質)は統治単位として考えられなくてはなりません。そして、このような統治単位として研究されなければならない三つの課題があります。

@ 自然状態での人間に関する研究 ・・・ 健康とは?
A 自然な乱れからくる病気の状態における人間の研究 ・・・ 病気(麻疹、乾癬など)
B 人工的な乱れからくる病気の状態における人間の研究 ・・・ レメディー

  1つ1つの病気・レメディーを単位として確実に理解できたなら、マテリア・メディカを勉強し応用することができます。

(講義10まとめ 終わり)

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<NO.11 第11章:健康な状態および病気と治癒の過程:060709>

「真の病気」の定義・・・前駆期・進行期・衰退期・あるいは継続期を持つもの

@ 健康な状態、あるいは、身体の正常な活動について

完全な健康状態の人・・・ショックを与えられたり、外傷を与えられたり、もしくは何か粗野なものの活動の影響下に置かれても、そこから急性疾患や慢性疾患を起こすことはありません。(短い時間は、そのショックの影響下にあるとしても)


A どのようにして病気になるのか、あるいは、どのようにして秩序の乱れが起こるのか?

感受性の平面と類似の平面に作用する非物質的な本質(基本的な物質の活動)によってのみ、病気になります。・・・粗野な形態の毒物を胃の中に入れても、多くの場合、それがほとんどV・Fに作用することはありません。(ex.天然痘のかさぶたを飲み込んでも、それはほとんど問題を起こさない)しかし、その人の感受性に対応する平面上へと向けて、天然痘のオーラが吸収されたら、明確な病気となります。人間に知られている全ての病気は、学者によって発見されることはない“不可視な何か”なのです。そして病気の原因そのものは、結果=最終産物(見る・感じる・観察する・検出することができるもの)としてのみ研究されます。そして、最終産物に起こる病気は、動的な変化を経る以外には、発祥不可能です。


B 乱れた状態をどのようにして健康へと回復させることができるか?

どのようなものであれ、粗野な薬剤によって(永久的に)治癒が達成されることはありません。活性化された薬剤が、病気の人を治癒に導きます。V・Fの乱れは、V・Fの性質と似たものが秩序へと変化させてくれます(質的・力・身体の平面における類似性が必要)。薬剤は、質的に類似な平面へと高められれば、それは物理的な身体にある高い内部の平面に影響を与えることができるのです。レメディーはより高いポーテンシーを投与すれば、より内部に作用します。そして、レメディーは的確なものでなければなりません。そうでなければ、身体の秩序を立て直して病気を消滅させる方向へは作用しません。

真の病気は、動的な原因によるものです。だから人間にとりつくことができるのです。ですから必然的に、病気の原因の性質や特質に類似するまで減衰(活性化)させられた薬剤以外では治癒されることはできません。そして、病気の治癒を促す薬剤は、性質上、類似していなければなりません。原因の効果の性質や特質が類似しているのなら、原因そのものも類似しているはずです。

患者の臨床に立つ医者は「健康な人に、このような症状を作り出すレメディーを私は知っているだろうか?」と自問し判断を下さなければなりません。その医者は、薬剤投与について芸術家でなければならず、差異と類似性の微妙な陰影を鑑別できなければなりません。

(第11章終わり)

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<NO.12 第12章:症状群の全体像の除去は原因の除去を意味する:070307更新>

オルガノン第17段落のポイント

「症状群の全体像」の除去は「原因」の除去である。

全ての最終産物の在り方には非常に大きな割合で最初の「原因」が含まれている。また病気の結果としての組織変化は多くの場合、その身体に必要なものとして存在する。それは根本原因に起因する最終的な結果や効果でもある。
従って「原因」を除去しない限り「症状全体」は除去されない。

また、「原因」の除去のために、見つけるべき病気の真髄と性質やイメージは「全体像」の中に存在しなければならない。「症状の全体像」とは、大変多くの広い範囲を意味しており、病気に不可欠なもの(個々の症状だけでなく外見や触覚、表現されているもの)全てを指す。「症状の全体像」のみが、病の個人化、レメディーの個人化を可能にし、レメディーの選択に関して示唆を与えてくれる唯一のものでだからである。

第18段落のポイント

「全体像」を考慮するとともに全ての症状を統合する。

全体像を考慮するだけでは十分とは言えない。表現された症状の価値を知るために、個々の症状と全体像との関係性も洞察する必要があり、また個々の症状についても、よく見られるものなのか、特殊なものなのか、SRPなのかなどを検証し全体像に関係づけなければならない。

第19段落のポイント

レメディーの治癒力についてであるが、人の健康状態を変える力によってのみ発揮されるレメディーは、人の身体に変化を及ぼすことができなければ、身体に秩序を回復させることはできない。また感受性の一致も考慮しなければ、変化を起こす力が及ばない場合もある。レメディーが変化をもたらすことは「プルービング」によって知られている。秩序回復の際に病気の人に与えるレメディーの効果は、健康である個人に効果を誘導することによって最もよく観察できる。

第20段落のポイント

霊的な力が人の健康状態に変化を及ぼす現象を経験することによってのみ、レメディーを知ることができる。
すべての薬剤は健康な人において徹底的にプルービングされなければならない。多くの人に与え、これらの人々が経験する症状を表現として記録する。最初はその薬剤が人々を病気にすることができるということを知り、そのような病気の状態とは何なのかを理解する。それが、「症状の全体像」としてのイメージを浮かび上がらせる唯一の手がかりとなる。
偉大な大家から受け継がれ、何年も試行されてきた古くからのレメディーについては、私たちの「友人」として大いに学び、慣れ親しむことが大切である。

(第12章終わり)



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